ヱヴァの話さらに続き

 この間のヱヴァ話http://d.hatena.ne.jp/settu/20071022に関して、とても興味深いトラックバックを頂いたので、取り急ぎ覚え書き、というか。

http://d.hatena.ne.jp/paraselene/20070904/1188913671
(追記部分)

あずまんも言っているように、今時ループなんて珍しくも何ともない。そんなことを指摘しても何の意味もない。本当に問うべきことは、何故ループさせるのか、ループによって何を描こうとしているのかです。

 なるほどなぁ、と。
 納得させられてしまいます。

 ただ、そこから後のお話は、馴染みの無い用語が多かったので色々おっかなびっくりではあったのですが、読み込んでみます。

私は、庵野さんは「ヱヴァ」において、エヴァ前とエヴァ後の流れを止揚アウフヘーベン)してくれるのではないか、と密かに期待しています。「巨大ロボットアニメ」としての男の子的な作劇と、シミュラークルが散りばめられセカイ系という形をとる母権主義的な作品世界とを衝突させ、そこから何かを見出す。それはこれまでにない作品になるだろうし、時代を変えてしまったエヴァだからこそ出来ることだと思うのです。

エヴァ前(の流れ)」=「「巨大ロボットアニメ」としての男の子的な作劇」
エヴァ後(の流れ)」=「シミュラークルが散りばめられセカイ系という形をとる母権主義的な作品世界」

 であり、その止揚としてヱヴァが描かれるのではないか、というお話、なのでしょうか。

はてなキーワード曰く、シミュラークルとは、
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%b7%a5%df%a5%e5%a5%e9%a1%bc%a5%af%a5%eb

フランスの思想家、ボードリヤールが提唱した概念。ポストモダン社会における、オリジナルなきコピーのこと。

元来は文化人類学の用語であり、ある土地の伝統文化が滅びてしまった後、後世の人間がそれを惜しんで復活させた「まがいもの文化」を指す。

なのだそうです。


##「セカイ系」についても調べてみる。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%bb%a5%ab%a5%a4%b7%cf

過剰な自意識を持った主人公が(それ故)自意識の範疇だけが世界(セカイ)であると認識・行動する(主にアニメやコミックの)一連の作品群のカテゴリ総称。

新世紀エヴァンゲリオン』『ほしのこえ』『最終兵器彼女』などがこれにあたる。

[きみとぼく←→社会←→世界]という3段階のうち、「社会」をすっ飛ばして「きみとぼく」と「世界」のあり方が直結してしまうような作品を指すという定義もあるようだ。特に『最終兵器彼女』などは、“きみとぼく”が「世界」の上位に来ている、すなわち「きみとぼく」の行動で「世界」の行く末が決まってしまうという設定であるのも興味深い。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%bb%a5%ab%a5%a4%b7%cf?kid=3642#p3

笠井潔は、評論『社会領域の消失と「セカイ」の構造』*1において、次のように理解する。

セカイ
日常的で平明な現実にいる無力な少年と、妄想的な戦闘空間に位置する戦闘美少女?とが接触し、キミとボクの純愛関係が生じる第三の領域。
セカイ系
私的な日常(小状況)とハルマゲドン(大状況)を媒介する社会領域(中状況)を方法的に消去した作品群。

笠井は、《日常、現実、内部》と《異常、妄想、外部》の二項対立的世界から逸脱し、セカイ系への道を拓いたものとして、『新世紀エヴァンゲリオン』『ブギーポップは笑わない』を挙げている。


斎藤環は2人の論者の言説を引用しつつ、間接的ながら「媒介的なるものの喪失」につき以下のように述べている*2。

別役実
皮膚感覚でお互いに感じ取れる距離については「近景」。家族や地域社会といった共同体的な対人距離で構成される「中景」。神秘的なものや占いを信じるような態度は「遠景」につながる。そしていまや、近景と遠景を媒介するはずの「中景」が抜けてしまって、近景と遠景がネットワークを通じていきなり接続されるというのだ。
東浩紀
ラカンの用語を用いて、「象徴界の喪失」と表現している。ここで「近景」は「想像界」に、「遠景」は「現実界」に相当する。(中略)主人公たちの学園生活といった日常、すなわち想像界と、世界破滅の危機といった無限遠の彼方にある現実界とがいきなり結びつけられがちであることを指摘する。そこには「中景」にあたる「社会」や「イデオロギー」が存在しない。

<内面>と<世界>とをつなぐ橋渡しとしての<社会>を嫌がる態度(で描かれた作品)

惑星開発委員会仕様*3)


###ついでに、「あずまん」という言葉が何を差すのかわからなくて、ぐーぐるさんを色々ぶん回して悩んでしまったのは内緒だ。現代の哲学者、東浩紀氏のことだったのですね。




 「シミュラークルが散りばめられセカイ系という形をとる」とは、第三新東京市という全てが新たなギミックによって一から構築され、形成され場所に、中間状態が排除された、主人公達の小状況と世界全体の大状況が接続した形をとる、ということなのかな、と。そんな状況の、「母権主義的な作品世界」である、と。


 確かに上の引用を見るに、エヴァは今日の、とある方向性を持った一ジャンルの作品群の嚆矢としての役割を果たした、という面があったのかも知れません。



 つまり、エヴァ前」と、「エヴァ後」を切り分けたのがエヴァならば、それらを止揚、つまり高いレベルで再統合してみせるのがヱヴァになるのではないかという仮説と理解しました。なるほどなぁ、と。実に面白い見方だと思います。





「壊れていく物語」でシンジが対峙するものは、世界の解体だろう。"動物化"する世界の中で「今、自分は何をなすべきか?」という問いへの解答を見つけないといけない。それはとっても困難な作業だろう。けどそれは、「オネアミス」から「エヴァ」までさまざまな挫折と世界の解体を体験してきた庵野さん以外の誰にも語れない物語だと思う。そして、シンジがその新しい物語の入り口に立つことが出来たのなら、エヴァファンとしてはこんなに嬉しいことはない。


動物化
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%B0%CA%AA%B2%BD

以下はヘーゲルの欲望論。

http://www.ne.jp/asahi/village/good/hegel.htm

自己意識―主人と奴隷の弁証法

1. 生命;欲望

a) 欲望は外的対象へと向かう。例えば食欲は、その対象を食らい尽くす。それによって対象は消滅する。しかしそれと同時に、欲望も消滅する。

自然の欲望(動物的欲望)は、「対象を否定することによって自己を否定する」ということの繰り返しである。

(それは外から(=「私」の知らない所から)やって来る。私は欲望に「襲われる」。欲望が去ると、私は自己に帰る。これは欲望が動物的欲望だからである。)

b) これに対して、人間的欲望は、持続する欲望である。「自分が相手から認められることを認める」という二重の構造を持つ。

(「愛」とか「自尊心」等が、この典型である。他者からの承認を必要とする。このように、ヘーゲルの言う「自己意識」とは、本来は、他の「私」において「自己」を意識する「私」の意識を言う。)

 考えてみると、旧エヴァの、みんなでひとつに、というのは対象の否定であり、同時に自己の否定なのですねぇ。そして、シンジは最後にその枠組みを否定して、再び自己と他者を出現させた。


 「"動物化"する世界」とは、つまり自己しか必要としなくなる社会に変わってゆく世界、ということかと理解。つまり、ヱヴァ世界もそういう風になってゆくだろう、その過程でシンジはどう動くか、という話なのでしょうか。

 そして、それは同時に、庵野監督と、現実の創作作品世界とのかかわりの話でもある、と。うーん、メタだ……。
 
 
 ただ、そういったメタ的な、「創作への想い」をそういう意味合いで作品に混ぜ込んでいるのだとしたら、なかなか面白い話だなぁ、と思います。




 ……なんというか、慣れない用語に無理に突撃するモンじゃないですなw
 
 そのうち、もう一回落ち着いて考えてみたいお話です。