お客さん目線と、車掌さん目線と

能動的な放送
http://kojii.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_8f3c.html

 なかなか興味深いお話です。

それにしても、この変化の背後に何があったんでしょうか。

 近年の自意識の変化云々、というのがありきたりの答えになるのでしょうけれども、何かこう、もうちょっと意外な経緯みたいなものでもあったら夢?があって良いんだけどなー、とか何となく思ったり。


 ただ、よく考えてみると、お客さんにとっては目の前のドア「が」閉まるんですよね。
 車掌さんとしては、ドア「を」(スイッチで)締めるにしても。


 お客さん(の手元)目線で語っているか、車掌さん(の手元)目線で語っているかの違い?


 前者の方が、なんとなく、あくまでお客さんを主、車掌さんを従としている感じで、ある意味お客さんを敬っての表現のように見ることも出来る、となりますでしょうか。しかしながら、従になりすぎて、言わば車掌さんの存在がとても希薄になってしまっている、ともなる。ドアが勝手に閉まりますから、お客さんはご自分で注意してくださいね、みたいな。

 そして、その一方で後者の方が、諸々の車掌としての責任をきちんと認識してますよ、というアピールをしっかりしている、とも言える。私がドアを閉めますよ、私が全責任をもってドアを閉めますよ、と。


 「ドアを閉めます」と言われると、その瞬間にお客さんは車掌さんという個人を意識することになる。
 結局は、車掌さんという個人を、お客さんに意識させる、より細かく言えば「お客さんに意識させる」ことを意識するかしないか、という「自意識の変化」の話になっちゃうのかなぁ。


 エレベーターとかも含めた機械音声全般だと、ドア「が」閉まります形式、が多い感じですよね。機械(プログラム*1)は責任を負える個人ではないから、ということか。


 やっぱ、責任の所在について問われることが多い最近の風潮の影響云々、っていう良くある話ってことになるのでしょうかねぇ。

*1:手動操作に従って音声を発するだけ、というような仕組みも含む